
【3行まとめ】
- AIは情報の整理を代行してくれますが、責任までは引き受けてくれません。
- 判断と実装の責任は、今もこれからも人間の側にあります。
- それを引き受ける覚悟が、産業保健専門職には求められています。
生成AIがあらゆる業務で活用されるようになり、ネット検索からのレポート作成、会議の議事録、プログラミングコードの生成など、仕事の風景は一変しました。産業保健の分野でも、「AIをどう使うべきか」「どこまで任せてよいのか」という問いを耳にする機会が増えています。
また最近では、「AIの出力をそのまま使うことによる質の低下」も指摘され始めています。内容をよく理解しないまま生成されたコードを使ったり、ポイントのずれた議事録をそのまま共有したりすることで、結果的にチーム全体の効率を落としてしまうケースです。
AI活用の流れは、遠からず産業保健の領域にもやってきます。そのとき私たちは、AIの出力にどこまで判断を委ねてよいのでしょうか。今回は、AI時代において産業保健専門職の役割がどう変わるのか、そして私たちが何を守らなければならないのかについて考えます。
仕事の本質は「作業」から「判断」へ
プログラミングや文章作成の現場では、すでに仕事の構造が変わりつつあります。AIが下書きやコードを作り、人間がそれを確認して採用を判断するプロセスです。
ここで重要なのは、AIの成果物を採用した瞬間に、その責任は人間に移るという点です。「AIが作ったから」という言い訳は通用しません。プログラムの品質を検証するのは人間ですし、作成された資料が文脈に適しているか確認するのも担当者の役割です。
つまり、AI時代の仕事は「ゼロから作る仕事」から、「AIのアウトプットの良し悪しを見極め、責任を持って引き受ける仕事」へとシフトしています。この考え方自体は、弁護士やソフトウェア・エンジニア、医師といった専門職の間では、AI活用を考える上での前提として、すでに共有されているものです。産業保健の領域では、ようやく同じ問いが、現実の問題として浮かび上がってきています。
産業保健領域における現時点でのAI活用
一方で、「産業保健の現場では、まだAI活用の具体的な事例が少ないのではないか」と感じる方もいるかもしれません。確かに、AIが産業医や産業保健職の判断そのものを自動化している事例は、現時点では限定的です。一方で、判断の「前段階」においては、すでに変化が起きています。
・面談記録や議事録の要約、文章整形
・健康教育や社内説明用の資料の下書き作成
・健診データの整理、対象者抽出の補助
・対応方針を検討する際の論点整理や選択肢の洗い出し
こうした業務に生成AIが用いられることで、「AIが整理した情報を前提に、次の対応が決まる」という場面が増えてきます。たとえ最終判断を行うのは人間だとしても、判断の土台づくりをAIが担い始めているという自覚が必要です。
産業保健におけるAI活用の注意点
AI導入によって問題となるのは、判断の誤りよりも、判断のプロセスがブラックボックス化することだと言われています。例えば、AIが出力した「ハイリスク者リスト」について、「なぜその人が対象となったのか」を説明できなくなる恐れがあります。また、AIが提示した「対応方針の選択肢」についても、その根拠や良し悪しをうまく説明できなくなってくるかもしれません。
加えて、「AIを使っても、自分の能力以上の仕事はできない」という現実もあります。 的確な指示を出し、出力の正誤を見極めるには、使い手自身の専門知識や「眼力」が不可欠だからです。AIはあくまで私たちの能力を「拡張」するツールであり、知識不足を勝手に「穴埋め」してくれる魔法の道具ではないのです。
「判断」の重みと専門職の責任
今後、ハイリスク者の抽出やアクションプランの提案など、AIのサポートはさらに強力になるでしょう。しかし、提示された結果をそのまま用いるか、修正するかを決めるのは、常に産業医や産業保健専門職の役割です。
なぜなら、私たちの判断の多くは働く人の「健康・安全・雇用」に直結するからです。法律が専門職に求めているのは、計算の速さではなく、倫理観と知識に裏打ちされた責任ある判断です。これまで専門書やガイドラインを参照してきたのと同様に、AIも一つのツールとして使いこなしつつ、最終的な説明責任は人間が引き受けなければなりません。
例えば、生成AIの出力に対しては、必ず人間がダブルチェックし、その根拠となっている法令やガイドライン、また、事実(実際に検査値の異常があるかどうか)を確認する、というようなフローが必要でしょう。AIの回答がもっともらしく見えても「最新の法令やガイドラインと矛盾していないか」「医学的に妥当か」を見抜く力が要求されます。また、判断のプロセスのどこかに必ず人間が入るというような仕組みも必要になります。
「業務の効率化」の先にある「調整力・実装力」
AIの導入によって、産業保健の業務も今後さらに効率化が進んでいくでしょう。しかし、産業保健の現場においては、単に「的確な判断」を素早く示すことだけがゴールではありません。それが現場で実行され、関係者に受け止められて、初めて意味を持つという点に特徴があります。
とくに管理職や人事の立場では、医学的に「正しい」判断であっても、現場で実行可能でなければ意味がありません。関係者のそれぞれの立場や現場の状況を踏まえながら、納得感のある合意形成を図る「調整力」と、判断を具体的な行動や制度に落とし込む「実装力」の両方が求められます。
こうした調整や実装のプロセスは、生成AIの出力のように瞬時に完結するものではありません。状況に応じて時間をかけながら、少しずつ関係性を築き、対話を重ねながら合意形成を進めていくなど、人間ならではの取り組みが必要となる場面も多くあります。
一方で、この調整や実装を進める過程において、論点の整理や対応方針の検討、資料の作成、想定される反論への備えといった作業では、生成AIが有効なパートナーになる場面も少なくありません。AIを活用しつつも、最終的に人を動かし、現場を動かしていく役割は、これからも産業保健専門職が担い続けることになります。
産業保健専門職の育成や教育においても、こうした「調整力」や「実装力」をどのように身につけていくかは、今後も重要な課題であり続けるでしょう。便利なツールが増えてきたからこそ、たとえAIがもっともらしい答えを提示したとしても、それが目の前の現場に当てはまるかを自らの頭で検証し、自分の言葉で説明できるよう、思考のプロセスを磨き続ける姿勢が求められます。
結論:専門家としての「判断力」と、現場を動かす「調整力・実装力」
AI時代の産業保健専門職に求められるのは、「人間味」や「感情への寄り添い」といった情緒的な要素だけではありません。
もっとも重要なのは、AIのアウトプットを専門知識で検証する「判断力」と、その判断を現場で実現する「調整力・実装力」です。AIがどれだけ進化しても、最後に責任を負うのは人間です。作業が楽になる分、「判断を引き受ける責任」の重みは増していくでしょう。
AIを使いこなす時代だからこそ、「最終的に誰が責任を負うのか」を曖昧にせず、プロフェッショナルとして判断や実装の最前線に立ち続ける姿勢が求められています。それは、これまでも私たちが大切にしてきた役割であり、これからも変わらない産業保健専門職の価値そのものです。




