診断書を見ても、何をすればいいかわからない——新人産業医が最初にぶつかる壁

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産業医として面談を始めた頃、診断書を手に『で、自分は何をすればいいんだろう』と途方に暮れた経験はないでしょうか。この記事では、その戸惑いの正体と、そこから抜け出すヒントをお伝えします。

産業医として面談をしていると、本人と職場で「困りごと」が大きく異なる場面に出くわすことがあります。主治医の診断書には「適応障害:業務負荷の軽減と職場環境の調整が必要」と書いてあります。本人も職場でのつらさを訴えています。しかし上司に話を聞くと、少し違う景色が見えてきます。「仕事がなかなか覚えられない」「同僚とのトラブルが続いている」。職場が困っているのは、そちらの方だというのです。産業医として何ができるか、どの困りごとに焦点を当てるかによって、対応の方向性は大きく変わってきます。

1. 臨床医は「診断と治療」を考え、産業医は「”困りごと”と”解決策”」を考える

臨床では、病名を正確に診断をすることが治療の出発点になります。「うつ病」であれば抗うつ薬を検討し、休養を勧め、精神療法を組み合わせます。診断名によって治療方針が決まります。

しかし産業医の現場では、病名だけで、職場の対応が決まるわけではありません。「うつ病だから業務負荷を減らしましょう」「適応障害だから環境を調整しましょう」というような単純な対応では、本人や職場の問題が解決できないことがあります。業務をどのように減らせばいいのか、担当をどのように変えればいいのか、上司との関係をどうやって整理すればいいのか。診断名だけでは、問題解決の答えは見えてこないのです。

産業医に必要なのは、本人がどんなことに困っているのか、そして職場はどんなことで困っているのかを丁寧に把握することです。診断名はその参考情報のひとつに過ぎません。

この考え方は、産業保健の世界では「疾病性」と「事例性」という言葉で整理されています。疾病性は症状や診断名など医学的な情報、事例性は遅刻やミスの増加、対人トラブルなど職場で実際に起きている問題のことです。産業医が「困りごと」に注目するということは、事例性にも目をむけるということでもあります。

2. 「困りごと」は、本人・職場・産業医で見えているものが違う

産業保健のケース対応において、困りごとは本人だけのものではなく、上司や職場もまた、それぞれの立場で困っていることがあります。そして、それぞれから見えている景色はまったく異なっています。

冒頭の例で言えば、本人は「人間関係や業務のプレッシャーがつらい」と感じており、上司は「仕事をなかなか覚えられない、対人関係のトラブルが続く」と別のことで困っています。そして産業医が面談を重ねる中で見えてくるのは、本人が状況を整理して優先順位をつけることに難しさを抱えており、それが仕事の習得の遅さや対人トラブルの背景にあるかもしれない、ということだったりします。

それぞれの視点を丁寧に重ね合わせることで、初めて「どんな背景から、どんな状況で、何が起きており、どんな影響が生じているのか」という「困りごと」全体の輪郭が見えてきます。この輪郭が見えて初めて、産業医として何をどう支援するかという話が始まります。

3. 「困りごと」を把握するためには、本人と職場の両方から話を聞く

困りごとを把握するためには、本人と職場の両方から話を聞くことが欠かせません。どちらか一方だけでは、前述したように、見えている景色がまったく異なるからです。

さらに大切なのは、「困っている」という漠然とした状況を、できるだけ具体的に特定することです。どんな場面で、どんな状況のときに、何が困っているのか。例えば「仕事のプレッシャーを感じる」「人間関係がつらい」というような状況を、「いつ、どんな場面で、誰との、どういうやり取りがつらいのか」、「プレッシャーを感じたりつらいと感じた時に、どう対応するのか」、「その結果、どうなるのか」まで掘り下げることで、初めて支援の手がかりが見えてきます。困りごとが具体的に特定できて初めて、「では何ができるか」という解決に向けた話し合いが始まります。

4. 「困りごと」に焦点を当てると、支援の選択肢が広がる

困りごとの輪郭が見えると、支援の選択肢も広がります。診断名から出発すると選択肢は医学的なものに限られがちですが、困りごとから出発すると、職場環境の調整、業務内容の見直し、関係改善、セルフケアの強化など、さまざまな選択肢が見えてきます。困りごとをより具体的に、正確に把握することで、提示できる選択肢の精度も上がります。

5. 「困りごと」がわかっても、解決できないこともある

困りごとが把握できても、それがそのまま解決につながるとは限りません。本人のニーズと職場の事情がかみ合わないことは、現場ではよく起きます。例えば、体調が悪くて通勤の負担が大きい、集中できる環境で仕事をしたいというニーズから、本人は週5日の在宅勤務を希望しており、主治医の診断書を提出しているけれども、職場の制度上、在宅勤務は週3日までと決まっているような場合です。制度そのものを変えることは産業医にはできません。

6. そのとき、産業医はどう動くか

環境的な制約がある中でも、産業医は本人・職場・主治医の三方向から働きかけることができます。本人とは、出社や通勤の負担を減らす工夫、負担の少ない業務の進め方、体調管理の方法などについて話し合いを重ね、会社が提示する環境の中で無理なく働けるよう体調の回復や働き方の工夫を支援します。職場に対しては、一時的に負担を軽減してもらう、軌道に乗るまでの間は段階的に調整する余地を設けてもらうといった働きかけを行います。さらに主治医には、職場の状況や制約を伝え、治療や回復の方向性が現実に即したものになるよう連携します。

このように周囲を巻き込みながら環境を整えていくことが、産業医としての現実的な関わり方です。多くの場合は制度の範囲内での対応になりますが、場合によっては、合理的な理由があれば、制度の適用範囲を柔軟に広げてもらったり、制度の見直しや改定まで含めて働きかけることもあります。また、法令や判例に基づいて、トラブル回避の観点から助言することもあります。さらに、同じような困りごとを抱えるケースが繰り返されるときは、個別の対応にとどまらず、職場環境や社内の取り組みそのものを見直すきっかけとして経営層に提言することも、産業医の大切な役割のひとつです。

それでも、本人の要望にすべて応えられるとは限りません。そんな時、産業医は会社寄りの存在だと思われ、信頼関係にひびが入るかもしれません。正直、気が引ける場面もありますが、しかし、それもまた、産業医の業務の現実のひとつです。産業医の役割は、会社か本人のどちらかの味方になることではなく、両者の間をつないで現実的な解決を探ることにあります。できることとできないことを誠実に伝えながら、本人と職場の両方を支えていくことが、産業医としての関わり方だと私は考えています。


産業保健の現場では、診断名はもちろん重要な情報ですが、それだけを頼りに職場での支援を考えようとすると、行き詰まることがあります。本人や職場の困りごとを丁寧に把握することで、産業医としての動き方が見えてきます。

面談の場では、まず「この人は何に困っているのか」「職場は何に困っているのか」という視点から状況を整理してみてください。それが、産業医としての支援の出発点になります。