
1. はじめに:産業医を悩ませる「記録業務」のボトルネック
現在、多くの産業医が共通して抱えている悩み。それは、過去の面談記録を「把握」し、新しい記録を「作成」するという業務に、あまりにも多くの時間を奪われている、あるいは「十分な時間を割けない」ことではないでしょうか。
面談前に膨大な過去記録を読み込み、終了後にさまざまな情報を整理してSOAP形式の面談記録を整える。この一連の作業には、1件あたり10分〜30分を要することも珍しくありません。こうした事務作業にリソースを削られることで、本来注力すべき社員との対話や高度なアセスメントを十分に行えない「もどかしさ」を抱えている方は多いはずです。
こうした作業の負荷は、面談の質そのものにも直結します。準備不足のまま面談に臨めば、同じ質問の繰り返しや重要な確認事項の聞き逃しを招きます。また、記録の整理が不十分だと情報の精度が下がり、他職種や現場への正確な伝達が妨げられるだけでなく、将来の自分にとっても役に立たない記録になってしまいます。その結果、ケース対応の質やスピードを落とすという悪循環に陥ってしまうのです。
産業保健でも臨床現場でも、記録(カルテ)は私たちの「思考の質」そのものを表しています。もし時間が足りないせいで記録がおろそかになってしまえば、思考の質もそれに引きずられてしまい、知らず知らずのうちに、次回の診察や面談の精度まで下げてしまう恐れがあります。
画面に向かってタイピングする時間ではなく、目の前の社員と向き合う時間を取り戻す。そのためには、AIを活用した実務のDX(デジタルトランスフォーメーション)が不可欠です。
検証結果:面談記録の作成時間を最大5分の1へ短縮
本稿では、セキュアな社内環境での検証から導き出した、2026年2月時点におけるリアルな効率化の実態と構想について解説します。紹介しているワークフローは、理論上の構想ではなく、著者自身が、実際の記録を用いて段階的に検証を重ねてきた結果に基づいています。
なお、検証にあたってはセキュリティを最優先し、社内の生成AI利用ルールに従って、入力データがAIの学習に利用されないセキュアな環境を利用しています。また、氏名・社員番号・部署名などの個人情報はあらかじめ「クライアント」「産業医」「職場」といった一般名称に置換するなどの匿名化処理を施し、個人を特定できない状態で行っています。
具体的には、過去の面談記録と逐語録を用い、SOAP形式の記録生成、要約作成、人事向け申し送り文の作成について試行を行いました。その結果、逐語録(書き起こし)が利用できる場面では記録作成に要する時間を従来の約3〜5分の1以下まで短縮できることを確認しています。
一生懸命タイピングして1件あたり15〜30分かかっていた作業を、気楽にお茶でもすすりながら5分以内で完了できるイメージです。
もっとも、これは完全な自動化を意味するものではありません。アセスメントや対応方針、申し送り等の記載については、必ず専門職による最終確認と修正が必要です。ただし、出力の9割以上はそのまま使えるレベルであり、ゼロから文章を書き起こす場合と比べると、認知的負担は明らかに軽減されます。現時点で、実務に十分組み込める水準に到達していると評価しています。
2. 生成AIが実現する次世代の面談ワークフロー
生成AIを情報整理のアシスタントとして組み込むことで、面談のフローは「準備・本番・実施後」のすべてにおいて劇的に進化します。
(1) 面談前:情報の構造化とゴール設定
AIが過去の記録をすべて参照し、重要ポイントを整理した「サマリー」と、今回確認すべき項目の「チェックリスト」を提示します。産業医は、これまでの経過と今日の面談のゴールを明確に理解した状態で、迷いなく面談をスタートできます。
特に、他の事業所から異動してきた社員など、他の産業医が対応していた事例を引き継ぐときに、とっても便利で、安心できます。
(2) 面談中:対話への集中とメモ取りからの解放
音声データの文字起こしを活用することで、記録のためのメモ取りから解放されます。産業医は、記録のためのタイピングに意識を向ける必要がなくなり、社員の表情や話の細部に集中し、必要最低限のメモを残すだけで済むようになります。
タッチタイピングとマルチタスクは得意な方なので、これまで面談しながらタイプするのは全く苦ではなかったのですが、文字起こしを使うようになると、メモ取りをせずに面談に集中できるので、すごく気持ちが楽になります。
(3) 面談後:高品質な記録の自動生成
「前回の記録」「当日の文字起こし」「面談中の最小限のメモ」の3点をAIに統合させ、SOAP形式の面談記録、人事向けの申し送り、管理用の要約を自動生成します。産業医は出力された内容を確認し加筆修正して確定させるだけで済みます。さまざまな情報を整理してゼロから文章を作成する作業と比べて、認知的エネルギーを大幅に節約しつつ、質の高いアウトプットを短時間で完成させることができるのです。
生成AIの進歩をもっとも感じる部分です。去年はできなかったことや、出力がいまいちだった部分も、今年にはすごいクオリティで出力できるようになるなんて、進化のスピードにびっくりですね。
3. 2026年の実務:AIとの協働がもたらす変化
これらの機能は、2026年現在の生成AIで十分に実用可能なレベルに達しており、今後は面談管理システムへの統合によってさらに身近なものになると期待されます。システムが普及した際、産業医の日常業務がどう変わるのか、具体的なシーンを追って見ていきましょう。
(1) 準備と面談:情報の標準化と対話への集中
面談前の準備においては、情報の要約が大きな助けとなります。これまでは複数の過去記録を読み込み、経緯を整理するのに時間がかかっていましたが、AIを活用すればワンクリックで時系列で情報を整理した、構造化されたサマリーを生成できます。他職種や前任者が作成した記録でも、標準化された形式で即座に内容を把握できるため、ケースの状況や対応の方向性を理解した上で面談に臨むことができます。これは産業医自身の安心感に繋がるだけでなく、担当者が交代しても一貫した支援が可能になります。
実際の面談中も、AIが整理したチェックリストを参照しながら、相手の話に深く集中できます。やり取りはすべて自動で文字起こしされるため、記録のために必死にメモを取る必要はありません。社員の表情を見ながら対話を深めることに集中し、自分自身の思考の整理のための最小限のメモを残すだけですみます。
(2) 面談開始時:文字起こしへの同意取得
面談開始時に「面談記録を作成するため、文字起こしをさせてほしい」と説明し、社員の同意を得ます。「文字起こしや録音を拒否されたらどうしよう」と最初は私自身も不安でしたが、社員の方は驚くほど自然に受け入れてくれました。リモートワークやオンライン会議の普及により、録音や文字起こし、生成AIによる文字起こしの要約作成が「当たり前のツール」として定着している社内環境だからこそ、スムーズな同意につながったのではと感じています。
(3) 面談中・面談直後:透明性の確保と効率的な音声メモの活用
面談の最後には、「会社側へ伝えるべき申し送り事項」をその場で本人に説明し、合意を得るプロセスが重要になります。こうした透明性の確保は、本人との信頼関係を深める一助となります。さらに、話した内容はそのまま自動要約されて面談記録に反映されます。
人事担当者や職場への申し送りを、面談中にしっかり考えて、ご本人にもはっきりと説明するようになりました。ここできちんと話しておけば、申し送りの意図がAIにもしっかり伝わるので、面談記録や申し送りにもばっちり反映されます。
また、面談直後のわずかな時間に、(面談の録音や文字起こしとは別に)産業医自身の気づきや思考を補足の情報を記録しておく際に、音声入力や音声メモが威力を発揮します。AIは「あー」「えーと」といった言葉(フィラー)を除去し、文脈から誤認識を補正するため、普通の言葉で話すだけで正確な文章として記録を残せます。キー入力(毎分200〜300文字)に対し、音声入力(毎分400〜700文字)は圧倒的に速く、隙間時間を最大限に活用できます。
「こういう課題がある」「こういう方向で対応をすすめる」など、面談記録のアセスメントにきちんと残しておきたい内容は、ここで短く音声入力しています。音声入力には、Windowsの標準機能を用いています。誤認識があっても、生成AIが後からうまく修正してくれるので大丈夫です。
(4) 面談後:高品質なアウトプットと管理の自動化
面談終了後は、過去の面談記録や当日の逐語録、面談メモなどから、AIがSOAP形式の面談記録や人事向けの申し送りを自動生成します。アセスメントやプランも産業医の意図を汲み取って構成してくれるため、産業医は最終確認と微調整を行うだけで、質の高いアウトプットを完成させられます。特に人事・職場向けの報告は、専門用語を避けた分かりやすい表現に変換されるため、現場との意思疎通がスムーズになります。
人事担当者や職場への申し送りには、以前から、言葉の選び方に気を使っている部分です。生成AIを使うと「もう少しわかりやすく」「専門用語を使わず説明して」「もう少し中立的に聞こえるように表現を修正して」など、ニュアンスの微調整を簡単に行えるようになります。
さらに、管理業務の効率化も同時に実現します。産業看護職と共有するケース一覧表への転記用データ(一行要約など)も自動生成されます。これまでのように複数の場所に同じ内容を加工しながら打ち直す手間がなくなります。AIへの指示(プロンプト)を自分流に最適化できれば、「報告は常に結論から書く」「一行要約の冒頭には面談日付を記入する」といったカスタマイズも容易です。定型的な管理業務を自動化しつつ、個々の産業医が重視する「記録の工夫」を反映させた、精度の高い情報共有が実現します。
4. 導入における留意事項と専門職の責任
いかがでしょうか。生成AIを組み込んだワークフローは、業務効率と記録の質を飛躍的に向上させ、産業医のスキルそのものを高める可能性を秘めています。しかし、この仕組みを安全かつ適切に運用するためには、以下の重要な留意点を守る必要があります。
(1) セキュリティ確保と情報の厳格な管理
導入の絶対条件は、強固なセキュリティの確保です。面談記録や逐語録は、極めて機微な個人情報です。一定の基準を満たしたセキュアな環境での処理はもちろん、AIによる二次利用を制限する設定など、厳格な情報管理体制が不可欠です。
(2) 生成AIの限界と産業医の最終責任
生成AIは情報の整理や要約は得意ですが、医学的なアセスメントや対応方針を自動で決定することはできません。時には事実と異なる内容をもっともらしく出力する「ハルシネーション」も起こり得ます。
生成された記録は必ず産業医が自らチェックし、事実とのズレや意図と異なる内容や表現を修正するプロセスを省略してはいけません。最終的な判断とアウトプットに責任を持つのは、あくまでも人間である産業医自身です。
とはいえ、生成AIが作成してくれた面談記録も、かなり「良い線行っている」ので驚きました。クライアントが話したいろいろな内容や、私が質問した内容などを、うまく整理・分類して、わかりやすくまとめてくれており、十分なクオリティです。「自分で面談記録を書かなくてもいいなんて」と感激すると同時に、「これまで苦労してきたのに」と悔しいような、複雑な気分です。
(3) 「面談の質」が記録の質を決定する
AIによる記録の質は、インプットとなる「面談の質」に完全に依存します。面談で何を聴き取り、どのような方向性で対応を進めるかという専門的な判断は、依然として産業医が担います。いくらAIが高性能でも、面談での聞き取りや対話が不十分であれば、生成される記録やアセスメントの質も低くなってしまいます。AIはあくまで実務を補助する道具であり、面談対応の質を決定するのは専門職としてのスキルです。
困難事例の背景には、共通して「情報の不足」があるように思います。
ケースの背後にどんな課題が潜んでいるのかを考察し、対応に必要な情報を収集するために「何を問いかけるべきか」を判断する力は、まさに産業医ならではの専門スキルです。(その領域さえも、いずれAIが担う日が来るのかもしれませんが、今はまだ私たちの腕の見せ所ですね。)
(4) 振り返りと専門性の向上への活用
一方で、AIは強力な「思考のパートナー」にもなります。作成した記録を保存して終わりにするのではなく、AIに対し「多角的な分析」や「不足している視点」、「現場に配慮した伝え方」などを問いかけることで、事例検討の「壁打ち相手」として活用できます。今回の面談で不足している情報があれば、次回の面談で確認する、職場の状況に不明な点があれば、人事担当者や職場の上司から話を聞いてみる、また、アセスメントに必要な疾患の特徴や法令等の関連情報を調べてみるなど、対応の方向性を調整することもできます。生成AIは、自分一人では見落としがちな点を客観的に整理し、面談対応のスキルを高めるためのガイドとしても役立つと思います。
(4) 専門職間の連携と事例検討の進化
構造化された質の高い記録は、他の専門職とのスムーズな連携を可能にします。AIを活用して相談用のサマリーを即座に準備できれば、事例検討や多職種連携のハードルが大きく下がり、より本質的な議論や意見交換に時間を割けるようになります。
事例検討用のサマリーを作成するために、過去の面談記録を必死に要約して整理して……そして当日はいろんな先生からボコボコにされる……という地獄を味わった人はいませんか? 生成AIがあると、前半の作業は一瞬で終わります。あとは、当日に向けて静かに心を落ち着けるだけですね。
5. 現実世界の専門職の仕事への影響は?
生成AIを組み込んだワークフローの実現は、単なる作業時間の短縮にとどまらず、産業保健専門職の「仕事のあり方」を大きく変える可能性を持っています。
(1) 業務効率化を超えた「記録の質」の向上
この仕組みが定着すれば、面談記録の質が飛躍的に向上します。記録形式が標準化され、情報の抜け漏れが防げるようになることで、誰にとっても分かりやすい記録やサマリーが共有されるようになります。結果として、個々の専門職の力量が底上げされ、組織全体で提供する産業保健サービスの品質が安定します。
(2) 専門職間の連携と人事・職場とのスムーズな意思疎通
質の高い面談記録は、産業医と産業看護職の情報共有と連携にも役立ちます。共通の書式で迅速に情報共有が行えるため、状況に応じた「次の一手」をタイムリーに打ち出せるようになります。
また、要点が整理されたアウトプットは、人事担当者や現場の上司への具体的なフィードバックにも有用です。専門用語を避けた「現場に伝わりやすい言葉」でのコミュニケーションが可能になり、専門職と職場の橋渡しがよりスムーズに機能し始めます。
社員との「面談記録」が、対応した専門職しかわからない「個人的なメモ」ではなく、チームみんなが理解でき、活用できる「共通言語」になればいいなと思っています。AIを用いて情報の粒度や書式を標準化することは、そのための大きな一歩かもしれません。
(3) 事務作業からの解放と専門性への集中
これまで一部の現場では、産業看護職が記録を代筆したり報告書の作成を補助したりすることもありましたが、AIの活用により産業医自身がこれらを迅速に完結できるようになります。産業医・看護職ともに面倒な事務作業から解放され、アセスメントの熟考や職場との調整、社員との対話といった「ケース対応の本質的な業務」に、より多くのリソースを割くことが可能になります。
(4) 困難事例への心理的ハードルの低減
「過去の記録が多すぎて経過を追えない」「何から手をつければいいか分からない」といった複雑な事例への心理的ハードルも低くなります。AIが膨大な情報を構造化し、優先順位を整理してくれれば、産業医は落ち着いて社員と向き合うことができます。こうして標準的な書式で整理された資料は、他の専門職への相談や事例検討にもそのまま活用できるため、一人で抱え込まずにチームで対応する文化の醸成にも寄与するでしょう。
おわりに:専門家の「スキル」と「AI」を組み合わせて
ここまで、生成AIを使った新しい時代の産業医の働き方や面談業務の進め方についてお伝えしてきました。
AIはとても便利な道具ですが、それを上手に使いこなすためには、土台となる「面談記録の書き方・まとめ方」の習得が不可欠です。複雑な事例をどう整理し、わかりやすく標準化された記録としてまとめるか。その具体的なコツを詳しく知りたいという方は、ぜひ『職場のメンタルヘルス不調:困難事例への対応力がぐんぐん上がるSOAP記録術』という書籍を参考にしてみてください。本ブログで公開している解説記事や解説動画も、あわせて活用していただければ幸いです。
「自分ですぐに完璧な記録を書くのは難しい」、「そもそもまとめる時間がない」と不安を感じる方も多いでしょう。しかし、その悩みこそ、まさに生成AIが解決してくれる部分です。情報を定型的な書式に素早く整理・要約することは、生成AIがもっとも得意とするところです。
AIをうまく業務に組み込むと、「初級者」でも「中級者」レベルのアウトプットが出せるようになります。「中級者」は「中の上」に、そして「上級者」は、自分の専門性をさらに活かしたり、より具体的な職場調整の提案を行えるようになるなど、さらに質の高い成果や価値を出せるようになります。
大切なのは、皆さんが持つ「専門職のスキル」と最新の「テクノロジー」がうまく噛み合うことです。事務作業の負担から解放されることで、産業医や産業保健専門職としての本来の仕事である「目の前の社員との対話」や「職場の健康づくり」にもっと時間を使えるようになります。
画面に向かってタイピングする時間を減らし、社員一人ひとりの課題とじっくり向き合える未来を、一緒に実現していきましょう。
ベンダー・システム開発者の皆様へ:DX推進に向けた協力について
2026年2月現在、一般的な生成AIを用いれば、こうした機能はすでに実用レベルで実現可能です。今後、あらゆる健康管理システムにこれらの仕組みが標準実装されるよう、各ベンダー企業の皆様の活躍に期待しています。
私は特定のシステムに限定することなく、中立的な立場から産業医実務の標準化とDXを推進したいと考えています。産業保健専門職にとって真に使いやすく、質の高い仕組みが広く普及することが私の願いです。
「楽をするためなら、苦労をいとわない」というのが私のモットーです。
現在、専門的な要件定義やプロンプトの設計支援や、実務視点での出力の検証などを通じて、開発プロジェクトに協力しております。標準化の推進はもちろん、各システム独自の強みを生かすためのUI/UX提案なども可能です。関心をお持ちのベンダーや開発者の方は、ぜひお気軽にご連絡ください。




